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ンバロだったの。 だから、バッハを弾く際には常にチェンバロの響きをイメージしながら演奏しなさい」と。 ピアノとチェンバロは、鍵盤楽器であるという点では兄弟の関係であるといえますが、その構造は全く異なります。 チェンバロの「良い響き」と、ピアノの「良い響き」は全く違うのです(ただし、中にはチェンバロをイメージした方が良い作品もあります)。
先の体験から、「バッハ=美しくないもの」という図式が成立していたので、レッスンには「好きな曲を持っていく」というスタイルだった大学時代は、自然とバッハと向き合う事がなくなっていたのですが、4年生になった時、あるコンクールの課題曲になっていた事で、どうしてもバッハの平均律クラヴィーア曲集を弾かなければならなくなりました。 一念発起し、楽譜を引っ張り出したバッハでしたが、レッスンを受けて印象が一変しました。 「歌って良い(歌わなくてはいけない)」、「色々な音色を使って良い(色々な音色を作り出してコントロールしなくてはならない)」。 過去の呪縛から解放された途端、その音楽の魅力に憑りつかれてしまいました。
バッハは、インヴェンションとシンフォニアの自筆清書譜(1723年)の序文に、曲に取り組むにあったっての注意点を挙げていますが、その中でこのように書いています。 『何よりもカンタービレ奏法を会得すること』と。 つまり「歌って弾く」事を求めているのです。 歌うということは物理的にレガートの演奏法を確立するという事のほか、息継ぎや、曲の区切り方などを、しっかりと意識する事を指しています。
確かに、バッハをモーツァルトのように、ショパンのように、ラフマニノフのように歌って弾く事は許されません。 バッハに限らず、どの作曲家の作品を取り上げるにしても、様式感を踏まえた上で演奏されなくてはなりませんが、無限の表現力を秘めた現代のピアノをいう楽器で演奏している、という事を忘れてはならないと思います。 歌って弾く事は、バッハの様式感を冒すものではないのです。 |